人間関係や重労働から転職を決意
私の前職はある自動販売機(以下自販機)のベンダーの会社でした。
ベンダーという仕事は、大手メーカー様から商品を購入し、それを自販機に補充や集金をしたりするルートセールスや、販路の拡大といった、新しく自販機を置いてもらうための営業という仕事の2つがメインの仕事をします。
私は、営業の仕事をするということで入社しました。
初めは、新人としては、月2件から3件の新規設置という実績を出してある程度の評価をいただきました。
ところが、皆さんがご存知の通り、日本には至る所に自販機がひしめくように設置されていて、およそ国内では250万台あります。
そういった状況の中で、置くところを見つける事がどれほど大変なことかと、この時初めて痛感させられました。
どこを見ても自販機だらけです。
1台設置されている所があるとその隣にもう1台お願いしますと、土地の所有者に頭を下げに行きます。
それを毎日何人、会社もあわせて何社も頭をさげて回っていきます。
運がよければ、今置いている自販機のルートセールスの対応が悪いと愚痴をこぼす方に出会い、私の所の自販機に置き換えましょうと提案をします。
これをオセロというのですが、そのオーナーさんに代わって、対応の悪い自販機会社に撤去の依頼の電話もかけていきます。
撤去するとなると自販機が1台減りその分会社の売り上げが減るわけですから、理由を根掘り葉掘り聞いてきます。
こちらも、敵対会社だということがばれないように上手に話を進めていかなければいけないので、すごく神経を使います。
そうしながら、営業という仕事を進めていきました。
私は、なんとか月に2、3台という台数が精いっぱいで、歩合制ということもあって給料もあまりもらえませんでした。
家庭を持っていたので、妻の給料と合わせてどうにか日々の生活を送っているというところでした。
でも、いくら営業を頑張ってもいっこうに先がみえない、ただ苦しいだけの営業活動に限界を感じてきたときに、ルートセールスを辞める人がでてきて、欠員ができました。
上司と話を進めた結果、私は、営業からルートセールスに移動することになりました。
実はこれはこれで営業とは違った大変な仕事であることがやり始めてすぐに判明しました。
皆さんは、外に設置している自販機に飲料を補充したり掃除をしてきれいにしたり、空き缶を回収する姿をみることがあるでしょう。
与えられた地域を担当者は、計画をたてて、一日に回る件数を考えます。
そこであることがわかりました。
私は、会社の中で一番遠方の地域の担当を任せられました。
会社に一番近い人は会社を中心としたところです。
担当する台数は同じなのに、私のなかでは、どこか不平等だなと思いました。
私の場合、担当地区に到着するまでに40分から1時間かかって現地に到着します。
そして、一番遠いということもあって、会社の近くを担当する人と違って一度会社をでると帰って水分を補充することができないので、他の担当者よりもかなりの量を車に積んでいきました。
ですので、車に積む飲料の量も会社の近くの人と比較しても多く、これもかなりの重労働でなおかつ、自販機を設置しているシチュエーションも道路よおりも20センチから30センチくらい上に設置されているところが多く、背の低い私にとっては、補充自体も大変な作業だったのです。
これを1年間我慢しながら作業をしました。
ある時、あまりにも、会社から近い人が私の実績と比べてくるので、会社からの距離や自販機をいてあるシチュエーションの悪さに差がありすぎると、怒りをぶつけました。
すると、かえってきたことばが「要領がわるいだけだろ」ということでした。
この言葉に、いくら現状を訴えても状況が変わらないということを感じだしました。
そして、この会社を辞めようと思った直接的な原因は、前担当者の会社を辞めた理由と同じで、今の私と同じ状況が改善してもらえなかったということでした。
このままでは、体がもたないし、つぶされてしまうという危険さえも頭のなかに常に浮かぶようになりました。
少しノイローゼ気味になった時に妻から「辞めてもいいよ」との一言がありました。
そして私は、この会社を辞めたのでした。
藁にもすがる思いで転職活動を行う
およそ2年ほど働いた会社を辞めて、転職活動をすぐに始めました。
会社を辞めることは自販機の会社が初めてではなく、前にも辞めた会社があって、その時はIT関連の営業をしていました。
会社のネットワークのシステム化を提案して機材を購入していただくためのものです。
前職を11月に辞めて少しでも早く次の職に就きたいと一生懸命に探しました。
次の就職先が見つかるまでの間に、ある大きな書店の店頭でのアルバイトをしながら探しました。
他にも、以前IT企業で働いていた時のつてで、就職のお願いをした会社もありました。
しかし、後ろ盾もなにもない私には形だけの面接ですぐに不採用の電話が入りました。
あるとき、書店で書籍を並べていた時に、ある書籍のコピーが目にとまり、それを購入しました。
ある一人の花屋の主人が、何億もの年収を得るまでになったサクセスストーリーでした。
私も必死に読み、その感想をその会社に送りました。
ちょうど住んでいるところから電車で30分圏内ということもあるし、私も花が好きだったので、これは運命ではないかと思い、履歴書といっしょに書籍の感想に熱意をこめてラブコールを送ったのでした。
しかし、その行動からの反応はありませんでした。
もう辞職して3か月が経っていました。この時すでに面接を受けた件数は22社になっていました。
ちょうど22社目の会社は前々職のIT企業と同じような仕事内容だったので、必死にくらいつきました。
採用人員は1人。そこに私は2回の面接をクリアしていて、最後の本社の役員との面接に臨んでいました。
私かあともう一人の採用希望者かどちらかだというところまで来ていたのです。
ここでも、必死に私は私自身のプレゼンを行いました。
私を採用することでどれだけのメリットが御社にあるかを訴えました。
しかし、結果は不採用となりました。
私はすぐに、採用担当者の方になぜ私ではだめだったのかを確認しましたが、初めはじっと口を閉じていましたが、結局はもう一人の採用希望者のほうがプレゼンが良かったということでした。
そして23社目の面接のための準備をしていました。
ここは、平均年齢が30代前後という結構若い方が多い会社でした。
しかも、上場企業としての準備をしているという、かなり大きな会社でした。私はもう辞職して4カ月が経っていました。
23社目の会社は、2回の採用面接がありました。
私は、まず一回目の集団面接の場で猛アピールをしました。
そして次の面接へと進むチャンスを与えられました。
次の2回目の時は2人同時に面接ということで前回よりもピリピリとした感じで面接に臨みました。
そして、ここでも22社目の会社に猛アピールしたように、必死に自己アピールをしました。
そしてついに、就職を勝ち取ったのでした。
この時の感動は、なにかにすがってでも入社したいという気合だけで面接に臨んでいたのではっきりとそのときの私の記憶に残っています。
重労働からうつ病にかかってしまう
ようやく、前の会社を辞めてから5カ月が経って就職できました。
IT関連の営業担当ということでの入社です。
この時は、実はどんな商品を営業しているかをはっきりと確認していませんでした。
こちらが弱い立場であることもあって、会社側の出すオーダーに対していいように返答をしていたからでした。
実は、入社して営業方法が特殊な会社だということが分かったのです。
幾つかの事業部が存在するのですが、まず、どの階に何の部署があるかはわかっても会社内の案内紹介がなかったので、まったく会社の全体像が見えてきませんでした。
そして、支店長の挨拶は受けたのですが、それ以上の役員との顔合わせはありませんでした。
私は、IT関連の中の企業用ホームページを進めてその契約をとる仕事についたのでした。
でもその営業方法が独特でした。まずは、企業の電話帳の業種別に、マニュアルに沿った順序で電話をかける仕事から始まりました。
実は、ここにはアルバイトのテレフォンスタッフが30人以上いました。
そして、電話で、関心があるという会社が出てくると、営業の班長から人員が選択され、その会社へ直行するのでした。
実は、その会社が独特なのは、顧客を見つける方法というよりも、お客様にあってからの営業の詳細なトークが既にあって、それに従って、お客様に話を進めるというものでした。
今までの私の経験の話ややり方は一切、封じこまれました。
そして、いったん外に出ると、ずっと外で待機して次の会社を指示されるのを待って、決まると企業名と住所を知らされ、地図で調べてそこへ向かうのでした。
そして、その繰り返しが毎日続くのでした。
1カ月間のトーク練習の意味がその時わかりました。
ほかのことをしゃべってはいけない、これが完全な営業で実績がとれるトークだということでした。
ですので、営業に失敗してゲットできなかったら、出先で携帯電話でもってずっと説教をされる有様でした。
でも、頑張って入社した会社です。
いくら、営業のやり方に不満があって、また、移動の連続で体がつらくても文句をいうことは絶対しないと自分自身に誓って、毎日働きました。
遠い客先には、直行で朝早くから営業をします。
夜も営業が終わってからという企業には夜9時から0時まで営業をしたことが何回かありました。
そうして、実績をあげながら、毎日を死ぬ気で頑張りました。
会社の休みは週休2日制で土日が休みでしたが、土日も、実績が悪いと出社することもありました。
そうしながら、グループでの実績対抗をさせられたり、個人別の実績競争をさせられたり、とにかく競争をさせる会社でした。
でも、悪いことばかりではないのです。
飴と鞭といいますが、実績がことのほか良い時は、豪華な食事をごちそうしてもらえたり、大きなイベントに無料で行かしてもらうこともありました。
でも、私には心は燃えていても体のほうに、知らないうちに問題がでていました。
ある日突然、朝起きられなくなったのです。
どうにかして起きようとしても起きられません。
それでも、どうにか起きて会社に行くために電車にのって、会社の最寄駅に到着しました。
するとここから会社へと足が進みません。
そして、体調不良の電話を支店長に連絡してまた家に帰るのでした。
こんなことが1週間続きました。
もう限界だと妻に告げ、支店長に辞職の意向を伝えました。
もちろん、支店長には考えなおすように何度も言われました。
それと同時に私は、病院にも通い始めました
受診していた科は精神科です。
私の病気は「うつ病」だったのです。
支店長にこのことを告げて、最終的には辞表を受け取ってもらいました。
一生懸命に働いても、結果は誰にもわかりません。
私自身の気持ちはあっても体がストップをかけることがあるんだなと初めて知りました。
後悔はしていません。確かにきつい仕事でしたが、悔いはありません。
もうこのときには、38歳でした。
この会社の採用案内を見たときに平均年齢が30歳前後ということがあとからになって納得できたように思います。
いくら頑張っても体がついていかなかったのです。
その前に、とにかくなんでもいいから、就職できたらそれでいいと思っていた考え方も甘かったと思っています。
将来の私自身のビジョンが描ききれていない状態で突き進んできた結果かなとも思いました。
今は、自分の病気の治療を行いながら、次の会社をさがしています。