給料の低さから転職を決意

職場環境が悪いわけではありませんでした。

北海道のローカル都市に本社を置く広告会社として、大卒の新人社員7人の仲間がおりました。

7人は営業部門や制作部門に配属され、それぞれ上司、先輩、同僚にも恵まれ日々、切磋琢磨しながら充実した社会人生活を送っていたと思います。

私も、制作部門のスタッフとして得意先の広告原稿の制作や宣伝ツールの提案など、休む間もなく取り組んでいました。

気が付くと終業時間は過ぎていますが、原稿はまだ出来上がらないとか、得意先に出向いて打ち合わせをしたいのに先方が外出先から戻らないため、約束の時間を過ぎても打ち合わせに入れないなど、時間を自分本位でコントロールすることがなかなかできないというもどかしさはありました。

それでも、仕事の内容は、得意先の広告宣伝窓口をはじめ役員クラスと進める性格上、充実していたと思います。

ただ、如何せん給料が低かったです。

待遇面の不満が徐々に膨らんできました。

こんなに頑張っているのに、低すぎるよな、という不満です。

入社3年目でした。その年の秋、結婚を控えていました。

何とか給料の高い企業に転職したいとの思いで新聞の求人広告を真剣に見るようになりました。

北海道の企業はやはり待遇面で劣ります。

探す企業はおのずと東京に本社があり、業種は広告やPR、マーケティングあるいはマスコミ関係でした。

敷居は高かったと思います。

しかし、何とかしたいという気持ちは抑えられなくなっていきました。

 

希望通りの勤務地へ転職

 

新聞広告で、ある流通企業のマーチャンダイザー募集広告を見た時、面白そうだと思って早速、履歴書を送りました。

私の経歴を見た担当者から1次試験として東京で筆記試験があるので上京されたい、と連絡がありました。

これは上手くいくのではないか、と思いました。

ただ、北海道から東京へ入社試験を受けに行くのですから会社を休まなければなりません。

翌日、出勤して有休願いを出しました。

書類には有休を願い出る「理由」を書くスペースがあります。

ここは、ふつう「私事によります」と書きます。

私もそう書いて上司に提出しました。

上司は「どうした、なにかあったのか」と理由を問いただしますので、思わず「父が危篤で」と嘘が口をついて出てしまいました。

この会社を裏切って転職する、というような後ろめたさがあったのです。

昭和のバブルが始まるころの昔のことでしたから。

1次試験に受かったので、2次として面接試験を受けなければなりませんでした。

1次と2次の間はそんなに多くの日数があったわけではありませんが、また、有休願いを出さなければなりません。

上司にまた嘘をつく羽目になりました。

嫌でした。でも、仕方ありません。

理由を聞かれたらまたおやじを危篤にするしかない、と覚悟しました。

でも、その時は理由を聞かれなかったのです。私事都合でそのまま受け取ってくれました。正直ホッとしました。

面接では、勤務地の希望を聞かれました。

職種は内勤のマーチャンダイザーで東京本社勤務なのですが、最初の1~2年は現場の「売り場」に立つことがその会社の方針でした。

北海道から沖縄まで店舗を持つ流通企業です。

私は、北海道にも店舗があることを知っていましたので希望は北海道と述べました。仕事も変わり、勤務地すなわち生活するところも変わるのは少し辛いと思ったからです。

私の希望は叶えられ、発令日と勤務地および勤務セクションの通知が届きました。勤務地は北海道ですから全く問題ありませんでした。

 

和服売り場の転職を見過ごす

 

勤務セクション、すなわち配属先が「和服売り場」でした。

衝撃と戸惑いが走りました。

和服の知識など全くと言っていいほど持ち合わせていません。

単語として知っているのは反物、絣の模様くらいの物です。

しかも、女性スタッフがほとんどの職場だろうと想像がつきます。

女性スタッフとうまくやっていく自信はありませんでした。

どちらかというと、私は女性に甘く、惚れっぽい性格です。

それというのも、男ばかり4人兄弟で育ったことと、高校は男子校だったからだと思っています。

今でこそ、女性も男性も同じ同僚として同等に付き合って仕事ができますが、当時は冷や汗どころか脂汗が出ました。

この会社に転職すれば給料が上がるし、希望する職種に就くことができるのだけれど、「和服売り場」とは、どうしたものだろうか。

悩みました。ままよ、と新しい環境に飛び込んでも良かったかもしれません。

しかし、私はそれができませんでした。結局、このタイミングでは転職しなかったのです。

退職願いの書き方まで練習して、どういうタイミングでそれを上司に切り出せばいいのか悩みもしたのに、おやじを二度までも危篤にする覚悟もしたのに、しばらく、同じ広告会社にとどまりました。

そうこうしているうち、地元の民放TV局のスタッフが私を喫茶店に誘ったのです。

「人材を探しているのでと、よかったら試験を受けてみませんか」という話でした。

反物、と絣模様の世界よりは、今までやってきた仕事と同じ世界です。

一も二もなく受けることにしました。地元ですから、有休願いは必要ありませんでした。